実は多くの人が
既存の価値観に
洗脳されている
だけではないでしょうか?
武道の世界で達人と呼ばれる存在が
今は特にメディアによる
世の中への印象操作で量産されています。
そしてその本人と関係者の主たる目的は
売名とお金であり
残念ながら本当に言われる程の実力があるのか、
或いは本当に弟子を育てる気があるのかは
定かではありません。
真実と現実の絶望的な乖離
もしそうでなくても武道の世界は、表面的にはキャラでごまかすなど、上手く繕ってはいても、本質的に自己顕示欲の強い人間が多く、心の中では己の道場こそが1番だと思い込み、他の流派を建前ではリスペクトしながらも、本心では軽視している、つまり交流という名のお互いを利用する商魂逞しい売名行為、或いは他流派を己の流派のバージョンアップの為に利用しているだけのドメスティックな人間、つまり他流派の技を参考にしたという体裁で、のちに己の技であると主張する厚かましさが見え隠れする欺瞞的ナルシシズム。
商魂逞しい偽達人の蔓延
更には視野が狭く、最終的には自分の流派や思想だけを愛することが美徳であると考え、思考停止状態で先代の言うことを盲信、図々しい者は歴史まで捏造する、或いは謙虚な振りをして有名な師匠や流派の名前を利用し、己の実力をでっち上げ、更には支配力を増す為に上下関係にこだわり、型や形にこだわり、虚勢を張り、時には周りの武道関係者や利害関係者に迎合しながら、何十年も自分都合のルーチンワークを盲目的に続けている人間から、僕たちは一体、何を学ぶべきだというのでしょうか?
むしろ、彼らのような「拝金主義者」「打算主義者」「原理主義者」「自己顕示欲勘違い人間」「欺瞞虚言癖人間」を反面教師として捉えた方が、はるかに上達への近道となります。
常識とは
僕たちが武道を始めた頃、良く指導員からこの様な注意を受けていました。
「基本の型や形をしっかりやりなさい」「体力や筋力をもっとつけなきゃだめだ」「どうして先輩からのアドバイスを素直に受けないんだ」「他の色々な武道に目を奪われずに、ここ一本に絞るべきではないのか」「上達の妨げになるので、受けの人は相手の事を考えて、あまり強く踏ん張らないように」
みたいな感じで。
一見すると、確かに社会的というか常識的というか、
至極まともな事を言っているようにすら思えました。
でも何かモヤモヤしていたんですよね。
常識や社会性って何だろうって。
あるべき武の道を求めて
そして僕たちは、周りの仲間からも、このように言われ始めました。
「何だあいつら」「勝手な事ばかりやりやがって」「あいつらのワザはうちの流派のものでは無い」「あんな連中に関わるのはよそう」
彼らは中身の伴わない上っ面だけの礼法や、型、形を大事にして、先輩後輩という立場に執着し、周りの目を気にしながら、上の者に忖度しながら、師匠の言われた通り、基本稽古はそれなりにやっていました、機械的に。
僕らからすると、それはただ、上下関係を確立することによって己の立場を守っているだけの自己保身の最たるもの、或いは術を出来ない者が、型や形に逃げているだけの、惨めで愚かな行為そのものでした。
本当に彼らには武道の本質が見えているのか?
社会的洗脳と同調圧力
彼らは思考停止状態で洗脳されながら、道場内での自分の立場や居場所を守っているだけではないのか?
物事を好き嫌いだけで判断して、事実を認める勇気が無いだけの自己欺瞞ではないのか?
そのような言葉がいつも頭をよぎっていました。
そんなこんなで月日は流れたのですが、やはりと言うべきか、結局は、僕たちの実力はその道場の中で突き抜けたんです。
だけど、僕たちがここまで上達出来たのは、同調圧力に屈して、周りに迎合したり、一人の先生の教えを盲目的に守って来たからではありませんよ。
自分達のスタンスは何一つ変えずに、歯を食いしばってここまで来たのです。
夢、そして可能性
僕たちはただ、自分がワクワクしながら、楽しみながら、学んでいる流派の本質は守りつつ、世の中のレベルをきちんと見極め把握しながら、あらゆる角度から分析した稽古を続けて来たその結果、今の僕たちが存在するんだと、確信しているのです。
そしてそれは、誰にでも可能な事なんですよ。
本音を押し殺して建前で生きるのでは無く、正しさを選択する力と今を生きる勇気を持てば、誰でも必ず道は開けます。
さぁ次はあなたの番です。
誰も文句なんて言えないくらいの圧倒的な実力を身にまとい、自分の可能性を信じて歩んで行きましょう。
ようこそ!!
玉響庵(たまゆらあん)へ。
そして、おめでとうございます。
あなたも
凝り固まった世界から解き放たれ、
僕たちと一緒に自由な武道の世界を
共有して行くチャンスを手に入れたのです。
竹内恒輔 藤堂元治
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